「美の浪費」の話
こんにちは。
ここ最近も試験で忙しく、またしても久しぶりの更新になってしまいました。
今週は立て続けに二回論文試験があり、ちょうど一週間後にも論文試験を受ける予定です。
文章を書くのは嫌いではないのですが、将来を決めることとなると書く手が重くなってしまいます。
今日は気軽に、ただ思ったことを羅列しようと思います。
試験勉強をしているとたまに面白い文章に出くわします。
その一つを紹介します。
19世紀に博物学者が、未開地でゴクラクチョウという美しい蝶に出会ったときの話です。
彼はこの美しい蝶が長年誰の目にも触れず、誰にもその美を認められることなく、鬱蒼とした森の中で生涯を終えるのは「理不尽な美の浪費である」と憂鬱な気持ちになります。
「美の浪費」という言葉には、人間の美に対する価値観が多分に含まれています。
すなわち、美しいものはただそこにあるだけで美しいわけではなく、それを美しいと評価するものがあって初めて美しいのである、ということです。
近年、「自己顕示欲」という言葉をよく耳にするようになりました。
他者に認められることでしか自己を認めることができない人が、他者に認められようと自己をアピールすることを揶揄する言葉であると私は感じています。
SNSの普及によりその傾向は強まっている印象を受けるものの、他者からの評価によって初めて価値がつくという考え方は、社会的動物である人間としてはごく自然なのかもしれません。
言い換えると、自分の優れた部分を「浪費」することを恐れることは、至極自然なことだということです。
「個性を生かそう」とか「自分らしくあろう」という流行りの謳い文句も、個性や自分らしさを「浪費」するな、という意思の現れではないでしょうか。
しかし、周りから評価されない美もあるのが現実です。
個性が評価されないから、自分にはなんの取り柄もないと塞ぎ込んだり、過度に落ち込んでしまう方もいます。
ゴクラクチョウは鬱蒼とした森の中で、他の生物たちから美しいと思われているわけではないでしょう。ゴクラクチョウも自らの美しさを自覚することはありません。
しかし、人間は自分の美を自覚することができます。
真に美しい人というのは、大勢の人に美を認められる人ではなく、自らの美を認め、磨いていける人なのではないかと私は思います。
簡単なことではありませんが、他者依存から脱却するためには、真に美しくあることが求められるのではないでしょうか。